2015年8月29日土曜日

大阪市パノラマ地図について

「御堂筋と堺筋」のブログで利用させていただいた「大阪市パノラマ地図」について、興味を持たれた方もおられると思います。今回はこの地図を紹介します。

「大阪市パノラマ地図」は、1923(大正12)年の大阪市街地を描いた鳥瞰図で、1924(大正13)年に発行されました。
大阪市の南西、大阪湾の上空から北東方向を眺めた図柄で、左上に「大阪梅田停車場」が、右上に「大阪城」が、右下に「新世界」「天王寺公園」「四天王寺」が、左下に「築港」「大桟橋」が、それぞれ描かれています。

大阪市パノラマ地図(大正13(1924)年発行)

大阪梅田停車場(現在の「うめきた」は当時は大阪駅構築予定地です。)
大阪城(天守閣はまだありません。昭和6年の再建です。)
新世界・天王寺公園・四天王寺(初代通天閣と木造の五重塔)
築港・大桟橋(欄外には発行者などの文字があります。)
地図の中央には、大阪の船場、島之内、天満など、大坂三郷と呼ばれた江戸時代以来の市街地が描かれ、東西南北に規則正しく区画された町割であったことが分かります。
とくに、図の左半分には大川(淀川)が蛇行して流れ、市街地には東横堀と西横堀、長堀、道頓堀などの堀川が縦横に流れる姿は、「水の都」にふさわしい風景です。地図の中心には、西横堀と長堀が十字にクロスするところに四ツ橋が描かれています。

詳細にみると、公共施設や寺社はもちろんのこと、市電の停留所や学校、郵便局、交番や風呂屋まで書き込まれていて、図の中に入り込んで楽しめるパノラマ地図となっています。

図の作者は美濃部政治郎、発行者は日下伊兵衛(大阪、日下わらじ屋)で、1924年1月に発行されました。

当時の大阪市は東西南北の4区で、ほぼこの地図に描かれている範囲でした。翌年の1925年4月1日、周辺の町を合併(第二次市域拡張)して、面積181平方キロメートル、人口211万人となり、東京市を上回る日本一の大都市となりました。当時は世界でも6番目に人口の多い都市でした。いわゆる「大大阪」の時代です。

大阪は、「天下の台所」と称された江戸時代以来の経済地盤を活かして、商業・紡績・鉄鋼などの産業が栄え、近代建築が建ち並び、華やかで活気にあふれた、近代大阪の黄金時代を迎えました。

「大大阪」の象徴的なできごととしては、大阪城天守閣の再建(1931年)や大阪市営地下鉄1号線(御堂筋線)の建設(1933年に梅田から心斎橋間が開通)、御堂筋の拡幅(1937年)などがありますが、この「大阪市パノラマ地図」が制作された大正時代末にはいずれもなく、地図には表現されていません。大正末からの10年間で大阪は大きく変貌しました。この地図には、いわば大大阪前夜の大阪が描かれているといえます。

この地図は、大阪くらしの今昔館8階の近代のフロアで、じっくりと見ていただくことができます。原本の寸法は、タテ78.5センチ、ヨコ108.6センチとコンパクトなサイズですが、今昔館では、6つの模型の間の床面に光床として約7倍に拡大して展示しています。文字や図がぼやけることなく鮮明に読み取ることができます。90年前の制作としては、相当に精密な出来栄えであったことがわかります。
大阪くらしの今昔館近代のフロア
大阪市パノラマ地図の解説板・QRコード

原本は90年前の発行ということもあり入手はなかなか困難ですが、市立中央図書館、府立中之島図書館などで閲覧することができます。復刻版は大阪くらしの今昔館のミュージアムショップなどで手に入れることができます。
パソコンをご利用の方は、国際日本文化研究センターのHPから閲覧することができます。画像はとても鮮明で拡大も自由にできます。
スマホ(iPhone)をご利用の方は、「こちずぶらり」というアプリを利用すると、GPS機能によって地図上に現在位置を表示させることができます。まち歩きの際などに現地で以前に何があったかを確認することができて便利です。
古地図を見ながらのまち歩き、ブラタモリの気分で楽しんでみませんか。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
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2015年8月26日水曜日

御堂筋と堺筋

『生きた建築ミュージアム フェスティバル大阪2015』(通称:イケフェス大阪201)が、平成27年10月31日(土)、11月1日(日)の2日間を中心に開催されます。
『イケフェス大阪』は、まちを1つの大きなミュージアムと捉え、そこに存在する‘生きた建築’を通して大阪の新しい魅力を創造・発信しようとする取り組み(生きた建築ミュージアム事業)の一環として実施されるもので、参加建物数、プログラム数ともに日本最大級の建築公開イベントです。

御堂筋及びその周辺を中心とするエリア(キタ、中之島、船場、ミナミ、新世界等)で、普段はめったに入ることのできない‘生きた建築’の内部公開やツアー、トークセミナーなど、様々なプログラムが実施されます。‘生きた建築’のうちから、特に新たな都市魅力の創造・発信に資すると認められるもの50件が「生きた建築ミュージアム・大阪セレクション」として選定され、公表されています。その多くが、御堂筋、堺筋の周辺に立地しています。

また、住まい情報センターでは連続セミナー「住まいの大阪学」を毎年開催しています。今年は9月12日(日)、10月11日(日)、11月15日(日)の3回にわたって、「『大阪と建築』-大阪を華やかに彩る名建築」をテーマに開催します。また、10月31日(土)には、特別企画【建築に会いに行こうツアー】として、住まい情報センターを起点に、生きた建築ミュージアムを見に行くツアーを開催します。

そこで、御堂筋と堺筋を中心に、船場、島之内、難波周辺のまちの変遷を振り返ってみましょう。

[船場と島之内]

図は江戸時代天保年間の大坂のまちを描いた「浪華名所独案内」です。この図は、東を上に描かれており、海から眺めた大坂のまちの姿になっています。

図の横方向(南北)に水色で、上から東横堀、西横堀が、縦方向(東西)に、左から大川、長堀、道頓堀が描かれています。大川は中之島を挟んで、土佐堀川、堂島川に分かれています。西横堀から西には、江戸堀、京町堀、阿波座堀、立売堀が並んでいます。多くの橋が描かれており、水の都の様相がよく現れています。
浪華名所独案内の船場・島之内

東横堀と西横堀の間が中心市街地で、大川から長堀の間が「船場」、長堀から道頓堀の間が「島之内」と呼ばれていました。東横堀より東側の御城のある側は「上町」、西横堀よりも西側は「西船場」「堀江」と呼ばれていました。

道路を見ると、図の中央部南北(横方向)に、堺筋通り、心斎橋通りが描かれ、長堀橋、日本橋、心斎橋、戎橋の名前も見えます。この2本の道が、船場、島之内を突き抜けるメインストリートになっていた様子がよくわかります。(この図では、南北の道も「通り」と表記されています。東西の「スジ」もいくつか見られ、当時は、東西は通り、南北は筋という明確な使い分けは無かったようです。)

東西(縦方向)の通りを見ると、伏見町、道修町、淡路町、安土町、本町、久宝寺町、順ケイ町などの名前が見えます。通り名は入っていませんが、今バシ、カウライバシ(高麗橋)、シアンバシ、ノウニンバシ、安堂寺バシ、九ノ介バシ、瓦ヤバシといった橋の名前が書かれています。

今橋通に面して、平五、天五、鴻池の両替商、高麗橋通に面して、升屋岩城呉服店、三井呉服店(後の三越)、秤座、スルガヤ、玉露堂、虎屋饅頭、三井両替店などがあります。
浪華名所独案内の今橋・高麗橋付近
通の名前がそのまま町の名前になっていて、大坂城に近い東側から1丁目、2丁目・・・と呼ばれていました。大店(おおだな)は、東横堀に近い1丁目から堺筋あたりの2丁目に多くありました。
東横堀(外堀)より東は城の内側ということで、内平野町、内淡路町、内本町のように町名に内が付きます。町名と何丁目だけで大体の場所がわかる便利な仕組みになっていました。

堺筋は和歌山へ至る紀州街道の一部にあたり、船場から堺へ出る道であったことから堺筋と呼ばれました。当時から人通りが多く、南北方向のメインストリートでしたが、大川には橋がありませんでした。西国や北摂など大川以北からの人通りは、大川に難波橋が架かっている一筋西の難波橋筋に通じていました。

現在では北御堂、南御堂と呼ばれている2つの御堂が、西御堂、東御堂となっているのは、西本願寺別院(津村御堂)、東本願寺別院(難波御堂)からの呼称のようです。方角による位置関係よりも建物の由来からそう呼ばれていたと考えられます。この地図では東が上に描かれていますから、ちょうど京都の西本願寺、東本願寺と同じような並びになっています。
浪華名所独案内の御堂筋付近
2つの御堂の前(東側)の道が御堂筋ですが、幅は3.3間(約6メートル)で、北は御霊宮まで、南はイナリ社を経て長堀までしかなく、長堀には橋はありませんでした。御堂筋と呼ばれていた区間は淡路町から博労町間のみで、御霊宮から北へは一筋東の淀屋橋筋が土佐堀まで通じていて、淀屋橋、大江橋、蜆橋を経て曽根崎新地までつながっていました。

当時の御堂筋は、淀屋橋筋とは西に少しずれており、どちらも幅6メートルほどの狭い道で、堺筋・難波橋筋・心斎橋筋などと比べて見劣りのする、人通りの少ない道でした。昭和に入り、關一市長によって、地下鉄の建設とセットで24間(43.6メートル)に大幅な道路拡張がほどこされ、一躍大阪を代表する道路へと様変わりしました。


[市電建設と道路拡幅]

明治維新前後の社会混乱や経済制度の変革、東京への遷都などにより、近代の大阪は一時衰退に陥りますが、その後我が国産業革命の発祥地となり、近代商工都市としての道を歩みはじめ、近代日本の発展に大きく貢献しました。こうした都市発展の過程で、鉄道、港湾、街路、上下水道、社会福祉をはじめとする市民サービスの充実などが実施され、近代都市づくりのパイオニアとしての役割を果たします。

大阪市電の第一期線は、明治36年(1903年)に花園橋(現在の九条新道交叉点)から 築港桟橋(現在の大阪港/天保山)の間5.1kmの築港線が開業しました。天保山に開港したばかりの大阪港へのアクセス路線でした。

続いて明治41年(1908年)の第二期線(東西線・南北線、11.1km)開業で、市街を東西南北に結ぶ骨格が形成されました。第三期線は、全13路線、総延長43.2kmに及ぶ巨大プロジェクトで、この中には、昭和8年(1933年)に当時の關一市長(第17代關淳一市長の祖父)によって地下鉄が整備されるまで大阪市の南北を走るメインストリートであった堺筋を走る堺筋線や、戦後、千日前通として整備されることになる大阪市の東西の幹線の九条高津線も含まれていました。さらに、第四期線25.2kmそして期外線と急速に延長され、最盛期は約118kmと、市電では日本有数の路線となりました(東京都電に次いで日本第2位)。市電の建設に合わせて道路の拡幅、橋の新設・架け替えが行われ、短期間に都市のインフラの整備が進みました。また、沿道の建物の更新が促進され近代都市としての発展につながりました。


[大正時代の堺筋]

江戸時代の大坂は東西方向の道路が主で4.3間幅であったのに対し、従である南北方向の道路は3.3間幅しかなく、堺筋といえども例外ではありませんでした。

明治41年(1908年)に日本橋3交差点 - 恵美須交差点間が拡幅され、大阪市電南北線が敷設され、次いで、明治45年(1912年)に北浜1交差点 - 日本橋3交差点間が12間(約21.8m)に拡幅され、大阪市電堺筋線が敷設されました。

この際に、大川北岸の天満へ向けて、難波橋に市電を通すことに対して反対運動が起こり、そのため、大正4年(1915年)に堺筋に新・難波橋(現在の橋)が架けられ、天神橋1交差点 - 北浜1交差点間に大阪市電天神橋西筋線が敷設されました。完成後旧・難波橋は撤去され、難波橋筋の役割が加わった以降の堺筋は人通りが倍増しました。
下の地図は大正3年発行の大阪市内詳細図で、新旧の橋が両方架かっています。新橋には「大川橋」の名称が付けられています。
大阪市内詳細図(大正3(1914)年)の難波橋付近
大正6年(1917年)には三越が高麗橋に、大正10年(1921年)には白木屋が備後町に、大正11年(1922年)には高島屋が長堀橋筋に、大正14年(1925年)には松坂屋が日本橋筋に店を構えるなど、堺筋には4つの百貨店があり、大正時代から昭和初めにかけての大大阪と呼ばれた時代、堺筋は大大阪のメインストリートとして繁栄を極めていました。


[大阪市パノラマ地図に見る堺筋とその周辺]

このころの様子を、大正13年(1924年)に発行された「大阪市パノラマ地図」で見てみましょう。
南西上空から見た鳥瞰図で、主な建物や橋の姿、道路や鉄道が忠実に描かれていますので、当時の雰囲気を感じることができると思います。北から南へ見ていきましょう。

(北船場)
1枚目は、北浜から本町2丁目(現在の堺筋本町)にかけての北船場です。
大阪駅前から来た市電は淀屋橋で東に曲がり、北浜で南に曲がって進み本町、日本橋、恵美須町を結んでいます。

難波橋は、堺筋に架け替えられた新しい橋が描かれています。建設当初は旧難波橋があったため大川橋と呼ばれていましたが、旧難波橋の撤去後は、堺筋にあっても難波橋と呼ばれています。
淀屋橋から南に続く道は淀屋橋筋で、北御堂・南御堂の前(東側)の道が御堂筋、いずれも拡幅前で、幅は3.3間(約6メートル)でした。
大阪市パノラマ地図の北船場
高麗橋付近を拡大しました。この図には、4つの百貨店のうち三越が高麗橋に、白木屋が瓦町に見えます。
三越の南に小西儀助商店(コニシボンドで有名、重要文化財)があり、3階があるのがきちんと描かれています。生駒ビルヂングは昭和5年竣工ですので、まだ建っていません。
大阪市パノラマ地図の高麗橋・平野橋付近
大阪くらしの今昔館8階近代のフロアに展示している模型「住まいの大阪六景」のひとつ「北船場」の写真です。

昭和7年(1932年)、御堂筋が拡幅される前、堺筋がメインストリートとして近代化されていく昭和初期の北船場の街並みが1/100のスケールで復元されています。

伝統的な町家が建ち並んでいた江戸時代の旧大坂三郷は、近代化を進めるうえで狭い道路が障害となっていました。それは江戸時代以来、町家が軒下空間を取り込んだりして道路を狭めていたためです。そこで実施されたのが「軒切り」とよばれる都市改造で、明治の終わりから昭和の初めにかけて行われました。

この軒切りを機に大阪の都市景観は大きく変貌し、本2階建てや3階建の町家、洋風建築などの新しい形式の建物が現れてきました。また、町家の内部も、店の間を板敷きの事務所とするなど、近代化に対応して生活様式や商売の形態が改造されました。

堺筋はもともと3.3間(約6メートル)幅でしたが、拡幅によって12間(約21.8メートル)と3.6倍に拡げられました。それに合わせて町家で商売をしていた〇〇商店から、近代的なビルに建て替わるところも見られました。昭和5年(1930年)に建設され、現在も残り登録文化財に指定されている生駒ビルヂングはその一例です。


(南船場)
次のパノラマ地図は、本町2丁目から長堀橋にかけての南船場です。
堺筋の停留所は、本町2、久太郎町、博労町、長堀橋となっていて、東西に長い通り名・町名ですが、そのまま停留所名になっています。
長堀に架かる橋が長堀橋となっていることは、堺筋がメインストリートであった証しでもあります。
本町通の停留所は、本町2、本町3、本町4、長堀通の停留所は、長堀橋、三休橋、心斎橋、四ツ橋となっています。
大阪市パノラマ地図の南船場
パノラマ地図では、市電は太い線で描かれていて、国鉄や私鉄よりも目立つ表示となっています。また、車両の絵が描かれているところが停留所(電停)で、長堀橋のような大きな交差点には4台の車両が描かれていて、方面別の停留所の位置がわかります。芸の細かいところです。

長堀に架かる橋は、板屋橋、長堀橋、藤中橋、中橋、三休橋、心斎橋、佐野屋橋、角屋橋、吉野屋橋、西長堀橋となっています。御堂筋には橋はありません。
大阪市パノラマ地図の長堀橋付近

(島之内)
次は、長堀橋から日本橋にかけての島之内付近です。
長堀橋の南に高島屋がありました。現在のなんばに店を構えるのは御堂筋が工事中の昭和7年(1932年)のことで、南海店として開店しました。

心斎橋付近を見ると、大丸が心斎橋筋に面して建っています。拡幅後に御堂筋側にも入り口ができます。そごうは、村野藤吾さん設計の建物ができる前です。漢字で「十合」と書かれています。
御堂筋には長堀と道頓堀に橋が架かっていないのもよくわかります。御堂筋の拡幅に伴い、長堀に架けられた橋が「新橋」、道頓堀にかけられた橋は「道頓堀橋」です。
どちらもそのまんまの名前です。それでも、新長堀橋よりはよかったのかもしれません。長堀橋とは場所がだいぶん離れていますから、間違うと大変ですから・・・。
大阪市パノラマ地図の島之内
道頓堀付近を拡大すると、目につく建物としては、千日前に楽天地があります。大正3年(1914年)から昭和5年(1930年)まであった劇場・演芸場・レジャーの殿堂で、大正時代の大阪を代表するハイカラな名所でした。現在のビックカメラの位置にあたります。

道頓堀には、浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の道頓堀五座が描かれています。道頓堀に架かる橋は、日本橋、相生橋、太左衛門橋、戎橋、新戎橋、大黒橋となっています。
大阪市パノラマ地図の道頓堀付近
(日本橋から南方面)
次は、日本橋から南、現在のでんでんタウン周辺です。
市電がクロスする大きな交差点が日本橋筋1丁目(日本一:にっぽんいち)、難波からくる市電と三叉路になっているところが日本橋筋3丁目です。日本橋筋4丁目、5丁目にも停留所があります。このあたりでは、大阪城に近い北から1丁目2丁目・・・となります。3丁目と4丁目の間に松坂屋があります。松坂屋が天満橋へ移転した後は高島屋別館になっています。

南海電車の難波駅の右手、地図の中央に赤レンガの煙草専売局の建物が目立ちますが、ここに昭和25年(1950年)に大阪球場が建設されました。現在は再開発されてなんばパークスとなっています。この地は江戸時代には幕府の米蔵(難波御蔵)が置かれていたために、新住居表示以前の町名は(難波)蔵前町という町名でした。蔵に米を運び入れるため道頓堀から水路が通じています。現在は水路は埋め立てられて、上空を阪神高速道路が通っています。
大阪市パノラマ地図の日本橋・難波付近
(恵美須町付近)
次は、日本橋筋3丁目から恵美須町、霞町にかけてです。現在のでんでんタウンの南辺りになります。
水路は、道頓堀から分かれる支流で、江戸時代は幕府の米蔵を結んでいました。

左上が日本橋筋3丁目、中央の市電がクロスする大きな交差点が恵美須町、交差点の右側(南東)が新世界、天王寺公園です。第五回内国勧業博覧会(明治36年:1903年)の跡地を、西半分を民間で、東半分を市で整備したものです。エリアの四周を市電が走っています。

天王寺公園には動物園、植物園、市民博物館、美術館、公会堂、勧業館があります。現在の市立美術館は赤いラベルの「天王寺公園」の文字の下の広場に建っています。

図の右手が天王寺駅、天王寺公園の右上の道路は谷町筋です。四天王寺の北までしか拡幅できていないため、市電は一筋東の上町筋に迂回して走っていました。
大阪市パノラマ地図の日本橋・新世界付近
拡大してみると、恵美須町交差点の角には戎警察があります。交差点の北西、地図では左下に戎神社、水路を挟んで北側に廣田神社が見えます。
交差点の南東、右側には新世界があり、初代通天閣と、その南にルナパークとホワイトタワー、ロープウェイも見えます。さらに南に国技館、市電天王寺車庫があります。
大阪市パノラマ地図の恵美須町付近

[地下鉄の建設と御堂筋の拡幅]

大阪市助役から市長となった關一市長の都市計画により、昭和元年(1926年)から地下鉄御堂筋線建設と合わせて御堂筋を24間(43.6メートル)幅へ拡幅する工事が行われました。

淀屋橋交差点以北は先に整備されていた梅田新道がベースとなっており、明治44年(1911年)の大阪市電敷設の際に12間幅に拡幅されていたこともあって、大江橋北詰交差点以北の拡幅工事は昭和2年(1927年)に早々と竣工しました。一方、淀屋橋交差点以南は近世以来の3間幅からの拡幅工事となり、用地買収に時間がかかって昭和4年(1929年)にようやく着工することができました。

工事はまず地下鉄の建設から始まり、昭和8年(1933年)5月20日に梅田駅(仮駅)から心斎橋駅間(3.1 km)が開業しました。次いで、昭和10年(1935年)10月6日に梅田駅本駅が開業し、10月30日に心斎橋駅から難波駅間(0.9 km)が開業しました。

最初に開業した梅田駅から心斎橋駅の各駅のホームはドーム状の高い天井とシャンデリア風の蛍光灯照明を有していました(本町駅のみ支柱のある天井)。御堂筋線の特徴でしたが、混雑緩和のためホームと天井の間に中二階のコンコースが作られ、現在では高いドーム天井のまま残っている部分が少なくなっています。

開業当初、御堂筋線はわずか1両編成での運転だったにも関わらず、当時からすべての駅のホームが、将来を見越して17m級車による8両編成に対応するように建設されていました。当初は17m級車の12両対応で建設が進められましたが、あまりに過剰投資が過ぎるとして中津以北および大国町以南については8両対応に計画変更されました。このため現在でも、地下設備についてはほとんど手直しなしで当時よりやや大型の18m級車による10両編成で運行を行っています。

こうして地下鉄を先に開業させた後、地上の道路の整備が行われ、昭和12年(1937年)5月11日に竣工しました。新橋(長堀川)、道頓堀橋(道頓堀川)が架橋されたのはこの時でした。北御堂と南御堂とがともに沿道に並ぶ形になったため、全線が「御堂筋」と名付けられ、淀屋橋以南の街路樹はイチョウで、軌道がない一直線の目抜き通りとなりました。

商業施設はいち早く、一般企業の多くも戦後御堂筋へ移転し、メインストリートとしての地位も堺筋から御堂筋へ移ることとなりました。
現在の北御堂
現在の南御堂
古地図と写真を見ながら御堂筋と堺筋周辺のまちの変遷をたどってきました。江戸時代の大坂のまちは東西の通りを中心にした構造でしたが、南北の筋の中では堺筋と心斎橋筋がメインストリートとして栄えていたこと、大正時代には道路の拡幅と市電の建設によって堺筋が優位となり、4つの百貨店をはじめ多くの近代建築が建てられて繁栄したこと、昭和に入り地下鉄の建設と堺筋の2倍の24間という大幅な拡幅によってメインストリートの地位が御堂筋に移ったことが確認できました。
今年2015年は、大大阪発展のきっかけともなった大正14年(1925年)の第2次市域拡張からちょうど90周年になります。こうした重層的なまちの歴史を頭の片隅に置きながら、「イケフェス大阪2015」、「住まいの大阪学」に参加していただければと思います。
大阪市パノラマ地図と大阪市内詳細図は国際日本文化研究センターさんから、浪華名所独案内はちずぶらりさんからお借りしました。

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2015年8月24日月曜日

四ツ橋の今昔

 四ツ橋という地名を聞くと、昔の人、失礼、ご年配の方は、「プラネタリウムのあったところ」とお答えになると思います。現在の大阪市立科学館の前身の電気科学館が交差点に面して建っていて最上階がプラネタリウムになっていました。若い方は、「地下鉄の四つ橋線に駅があったかなぁ」くらいかもしれません。四ツ橋の昔と今を見ていきましょう。
 江戸時代の天保年間1820年ころの地図「浪華名所独案内」の四ツ橋付近です。東が上になっています。中央部左右の川が西横堀川、上下の川が長堀川です。2つの川がクロスしているところに橋が4つ架かっています。4つまとめて四ツ橋と呼ばれていました。
浪華名所独案内の四ツ橋付近

 大正13年(1924年)の大阪市パノラマ地図の四ツ橋付近です。パノラマ地図では四ツ橋は地図全体のちょうど真ん中に描かれています。鳥瞰図ですので道が斜めになっています。こちらも東を上にしています。

 長堀の北側の長堀通と西横堀の西側の四ツ橋筋に市電が走っています。位置は少しずれますが2つの通りの交差点も四ツ橋と呼ばれていました。電気科学館はこの交差点の北東角に建っていました。昭和12年(1937年)、日本で初の電気科学館(サイエンスセンター)としてオープンした施設で、東洋初のプラネタリウムを置いていました。四ツ橋のシンボルになっていましたが、老朽化を理由に平成元年(1989年)5月に閉館。同年に北区中之島に大阪市立科学館がオープンしました。パノラマ地図は大正13年発行ですので電気科学館は描かれていません。


大阪市パノラマ地図の四ツ橋付近

 昭和29年(1954年)の最新大阪市街地図です。心斎橋、道頓堀、大丸、そごう、文楽座、歌舞伎座、南御堂など名所と並んで、電気科学館の文字が赤字で大きく表示されています。

昭和29年の四ツ橋付近

 四つ橋筋には市電が走っていて南北線と呼ばれていました。大阪駅前と難波、恵美須町を結ぶ主要幹線でした。四ツ橋周辺の市電は昭和38年(1963年)に廃止されました。昭和40年(1965年)に地下鉄四つ橋線西梅田大国町間が開通しました。地下鉄四つ橋線は今年2015年でちょうど50周年になりますね。

 地下鉄四つ橋線の名前の由来は、地名の四ツ橋→橋の近くを通る南北の道の名前が四つ橋筋→そこに地下鉄が建設されたので四つ橋線です。四ツ橋駅の構内は心斎橋駅とつながっていますが、線名になっているので四つ橋線の駅だけは四ツ橋駅を名乗っています。ちなみに、四つ橋線の信濃橋駅は長堀鶴見緑地線ができて心斎橋駅とつながり、駅名も心斎橋に変更になりました。なんば元町駅もなんば駅に統一されました。地元ゆかりの地名は残してもよかったように思います。

 四ツ橋の地名に戻りますが、4つまとめて四ツ橋と呼ばれていますが、もちろん4つの橋にはそれぞれに名前があります。
・上繋橋(かみつなぎばし)=西横堀川に架かる北の橋。
・下繋橋(しもつなぎばし)=西横堀川に架かる南の橋。
・炭屋橋(すみやばし)=長堀川に架かる東の橋。島之内西端の旧町名「炭屋町」に由来。
・吉野屋橋(よしのやばし)=長堀川に架かる西の橋。北堀江東端の旧町名「吉野屋町」に由来。


 現在では、大川、土佐堀川、堂島川、木津川、道頓堀、東横堀(いわゆるロの字の水路)を残して、ほとんどの堀が埋立てられています。西横堀川は埋め立てられて上が高速道路になっています。長堀川は埋め立てられて地下に地下街と駐車場が造られました。その上が現在の広い長堀通りになっていて、中央部が広い分離帯になっています。もと長堀の南部分は一部民有地になっているところもあります。

 四ツ橋は、昔から、建物が建て込んだ都心部の中にあって貴重な開けた場所でしたので、散歩コースとして市民に親しまれ、また大阪の観光名所として写真が絵はがきにも多く用いられました。かつては夕涼みの名所だったそうで、 江戸時代中期の俳人小西来山の句「涼しさに 四ツ橋を四ツ わたりけり」が有名です。

 長堀通の中央分離帯には史跡案内と句碑が建っています。史跡案内は高速道路(旧西横堀川)の西側の交差点の脇にあります。こちらは、わかりやすいと思います。

 句碑は、少しわかりにくいですが、高速道路の東側、かつて角屋橋が架かっていたところにあります。上島鬼貫の句は「後の月 入て貌よし 星の空」で、小西来山の句は「涼しさに 四ツ橋を四ツ わたりけり」となっています。
 昔の地図を見ながらのまち歩き、古地図を片手に、スマホをお持ちの方はスマホに古地図を取り込んで、いろんな所へちょっと出かけてみませんか?

 スマホ(iPhone、アンドロイド)をご利用の方は、「こちずぶらり」というアプリを利用すると、GPS機能によって地図上に現在位置を表示させることができます。まち歩きの際などにその場所に昔は何があったかを現地で確認することができて便利です。
 大阪市パノラマ地図は、「こちずぶらり」に搭載されていますし、浪華名所独案内もこちらからダウンロードできます。
 古地図を見ながらのまち歩き、ブラタモリの気分で楽しんでみませんか。


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2015年8月14日金曜日

東海道五十七次(その2)「京街道の宿場町を散歩してみよう」

大阪くらしの今昔館の特別展「淀川舟游」にちなんで、京と大坂を結ぶ京街道のお話の続きです。
東海道五十七次(その1)はこちらからご覧ください。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2015/07/blog-post_95.html

江戸から大坂へ向かう道順で、伏見の一つ手前の大津宿からスタートし、宿場町を紹介します。
明治42年の地形図(陸地測量部地図)には、江戸時代の面影がまだ少し残っていますので、道順に沿って各宿場町と起終点である京橋・高麗橋の昔と今を見ていきましょう。

[大津]
草津宿から瀬田の唐橋を渡り大津宿に入ると、京町通を抜けて札の辻に出ます。ここから逢坂の関を超えて伏見宿へ向かいますが、途中の髭茶屋追分までは京へ向かう東海道と同じ道で、現在の京阪京津線に沿って進みます。髭茶屋追分で、東海道と別れ南西に折れるルート(大津街道・奈良街道とも呼ばれる)を進み、伏見宿を目指します。
大津宿の昔と今(今昔マップ)

大津宿~伏見宿(今昔マップ)


[伏見]
髭茶屋追分からの道は、伏見宿の南東隅に通じています。ここから、図の右端に近い京町通を北へ向かいそのまま直進すると京に通じています。
右側の現在の地図で道幅の広い大手筋は旧伏見城の大手門に通じる通りで、現在はアーケードのある商店街となっています。 京街道は一筋南の魚屋通を西に進み、途中かぎ型の折れ曲がり(「四辻の四つ当り」といわれる。右の図の+印)を経て琵琶湖疎水と高瀬川を渡り、まちの西端を南へ進み、宇治川の堤に出ます。
伏見宿の昔と今(今昔マップ)
四辻の四つ当たり
酒蔵の残る町並み
新高瀬川沿いの酒蔵
伏見みなと公園

伏見宿~淀宿(今昔マップ)

[淀]
淀宿は淀城の城下町がそのまま宿場町になっています。伏見から来た京街道は、淀城の北側の納所(のうそ)村(現在も納所交差点があります)で京の羅城門を起点に桂川に沿って進んで来た鳥羽街道(千本通)と合流します。また、宮前橋を渡り西へ進むと西国街道と合流します。京街道は納所から南へ城下町の折れ曲がりを経て南西に向かいます。
淀宿の昔と今(今昔マップ)

淀城の跡には現在、與杼(よど)神社と稲葉神社の2つの神社があり、史跡公園となっています。
與杼(よど)神社
淀城の石垣
淀城の城址、淀小橋跡、唐人雁木跡
稲葉神社案内板、稲葉時代の淀城下


明治22年の陸地測量部地図を国際日本文化研究センターさんから入手することができました。

木津川は明治時代の初めに八幡のほうに付け替えられた後ですが、旧の川筋の痕跡がわかります。宇治川は付け替え前ですので、淀城の北側を流れています。宇治川に沿って京街道がとおり、納所と淀城の間に淀小橋が架かっています。

地図の下部中央の美津村の文字のところが旧木津川の川筋と考えられますので、大橋の位置も推定することができます。木津川の付け替え前を想定すると、淀城はまさに三川合流地点に立地しており、水陸交通の要衝にさながら水上の要塞のようにそびえていたことでしょう。
明治22年の陸地測量部地図の淀城付近

淀宿~枚方宿(今昔マップ)


[枚方]
淀宿から宇治川、木津川を渡り、淀川の左岸の堤を南西に進みます。途中遊郭の栄えた橋本を経由して堤を進み、天野川を渡って枚方宿に入ります。枚方宿は、現在の京阪枚方市駅から枚方公園駅の一駅分の区間がすべて宿場町となっています。京と大坂の中間に位置し、宿場町として繁栄したことが覗われます。三十石船に飯や汁を提供する「くらわんか舟」は、枚方宿を基地にして活動していました。
枚方宿の昔と今(今昔マップ)
枚方宿の町並み
枚方宿の案内図
西見附案内板
鍵屋資料館

枚方宿~守口宿(今昔マップ)

[守口]
枚方宿からは光善寺あたりの旧集落を抜けて淀川の堤に出ます。堤上を南西に進み寝屋川市に入ります。淀川新橋、鳥飼仁和寺大橋、鳥飼大橋の3つの橋をくぐり守口市に入ります。守口宿は左の古い地図を見ると秀吉が整備した文禄堤に沿って宿場町が形成されていたことがよくわかります。
守口宿の昔と今(今昔マップ)
守口宿一里塚跡
守口宿案内図
守口宿難宗寺
文禄堤案内板

守口宿~京橋・高麗橋(今昔マップ)

[京橋・高麗橋]
守口宿からは市街地を歩き、千林商店街、関目の七曲り、野江の元刑場を経て京阪の京橋駅に着きます。さらに寝屋川の北岸を西に進み、大坂城の京橋口に至ります。京につながる橋ということで「京橋」と名付けられた橋が寝屋川に架かっています。現在の京阪の京橋とはかなり離れたところです。

そこからさらに西に進み、天満橋を経て、今橋の手前を南に曲がり、高麗橋に着きます。
高麗橋は大坂城の外堀にあたる東横堀川に架かる橋で、現在の土佐堀通に架かる今橋の一つ南になります。
幕府が管理する公儀橋のひとつで、大坂からの距離を示す基点(道路元標)がありました。橋の西詰には、南北に矢倉屋敷が建っていました。橋の欄干は矢倉屋敷をデザインしています。高麗橋通りには、呉服商、両替屋、紙屋、秤座などが並んでいて、当時のメインストリートでした。
京橋・高麗橋周辺の昔と今(今昔マップ)
京橋口付近から見たOBP
大阪城の石垣と天守閣
八軒家船着場の跡
熊野街道は八軒家から出発する
高麗橋西詰
高麗橋東詰の里程元標と矢倉屋敷の欄干


[あとがき]
6月の土曜日、三条大橋から、伏見、淀、枚方、守口、京橋を経て、高麗橋まで歩きました。暑い一日でした。全体に平坦な道ですが、アスファルト舗装の道が多く、特に伏見から淀の間は長かったです。枚方から守口も延々と堤防上を歩きますので、開放的な気分にはなりますがやや単調でした。全コース通してはウォーキングよりもサイクリング向きかもしれません。伏見、淀、枚方、守口の4つの宿場町は、それぞれ京阪電車の駅から近いですから駅を起点にした散策にも適していると思います。

三十石舟は、伏見から八軒家まで下りは半日で着きましたが、上りは流れに逆らうため全行程の3分の1にあたる9つの区間で人足が船を曳く必要があり1日を要しました。運賃も上りは下りの2倍以上かかりました。値段が高くて時間もかかるということで、上りは徒歩が多かったといわれます。昔の人は偉かった。

地図の紹介に使用させていただいた「今昔マップ on the web」は、埼玉大学教育学部 谷 謙二教授(人文地理学研究室)が作成された時系列地形図閲覧サイトです。明治時代後半から最近までの国土地理院地図を、現在の地図と参照しながら見ることができて便利です。
http://ktgis.net/kjmapw/index.html

東海道五十七次(その1)はこちらからご覧ください。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2015/07/blog-post_95.html


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