2016年4月18日月曜日

熊野街道ちょっと散歩 (第4回)

熊野街道ちょっと散歩、前回は、「あさが来た」ゆかりの地を訪ねながら東横堀川に沿って内本町まで歩きました。第4回は東区役所跡に建つ大阪産業創造館を出発し、久宝寺橋を経て空堀商店街を目指します。
地図は前回と同じ、昭和3年(1928年)発行の最新大大阪市街全圖を使います。大大阪の時代です。青い丸印をたどる道筋が熊野街道ですが、今回は緑の丸印をたどることにします。
昭和3年(1928年)発行の最新大大阪市街全圖でみる本町・上本町

本町橋の西詰北側には旧東区役所がありました。平成元年に東区と南区とが合区になり中央区になりました。中央区役所は中央大通り沿いに新築され、東区役所の跡地には大阪産業創造館が建っています。
東区役所跡に建つ大阪産業創造館

大阪産業創造館は大阪市の中小・ベンチャー企業支援拠点として平成13(2001)年1月に開業しました。「公益財団法人大阪市都市型産業振興センター」が運営しており、経営相談をはじめ、セミナーやビジネススクール、商談会、交流会など、多種多様なサービスで中小企業をサポートしています。またセミナー・研修・イベントに使える会議室等の施設も充実しています。
産業創造館の壁面

併設されている大阪企業家ミュージアムは、大阪を舞台に活躍した企業家の足跡や時代背景などを展示するミュージアムです。
企業家たちの夢や、苦労や、成功の大きな喜びなどを、明治以降3つの時代ブロックに分けて紹介します。社会・経済の発展、生活向上の原動力である企業家たちのチャレンジ精神と創造力の伝承を通じて、次代を担う人材育成を目指します。

また、企業家の生い立ちから活躍に至る事績を紹介する、「企業家デジタルアーカイブ」や、企業家の自伝、評伝、社史などの書籍が約2500冊。オリジナルの企業家インタビュービデオもあります。五代友厚氏の特別展示もありました。

大阪企業家ミュージアム

大阪産業創造館から箒屋町(ほうきやまち)筋を南へ進みます。正面に昭和45年に完成した都市計画道路である中央大通りの高架が見えています。幅員は最大80m、車線数は最大14。地下には地下鉄中央線、高架には阪神高速道路が通っています。
都心部では大規模な立ち退きが必要となるため完成が遅れました。船場では唐物町の南半分・北久太郎町の北半分、上町では農人橋詰町の一部・両替町の南半分・農人橋の北半分が道路用地となり、移転先として船場センタービルが建設されました。同時に「船場中央」の住居表示が実施されました。完成により東西の主要幹線は本町通から中央大通に移りました。
中央大通り、上部は阪神高速道路

中央大通を南へ渡ると、左手(東側)に中央区役所があります。平成元年の合区により新築された庁舎です。敷地は以前大阪市立東高等女学校、東高等学校があった場所で、記念碑が建っています。

中央区役所
東高等女学校・東高等学校跡の記念碑

さらに南へ進むと歩道にアーケードのある南久宝寺町に出ます。大阪では有数の問屋街の一つで、南久宝寺町一丁目から三丁目までの間にアーケードが設置されています。小間物問屋が集積した問屋街としての歴史を持ち、戦後は衣料品や服飾雑貨(カバン・袋物・傘・靴など)を扱う現金問屋街となりました。バブル崩壊頃より閉店する問屋が増え、かつての活気は失われつつありますが、いまなお大阪では有数の問屋街の一つです。
南久宝寺通(歩道にアーケードが付いている)
久宝寺橋

久宝寺橋について大阪市のホームページによると、橋名は伝説的な寺の名前に由来します。久宝寺は同盟の寺が船場の側にあったと言い伝えられていますが、その位置は定かではなく、『浪華百事談』にも「往昔此地に久宝寺といえる寺院有りし故に、其名ののこれるものとは碑に伝うれども、何れの地に有りしや、浪花の古図にも証すべきものを見ず」とあります。久宝寺の由来には他説があって、道頓堀川が開削されたとき、河内の久宝寺から多くの人夫が来て、この地に集落ができたためともいわれています。
久宝寺橋は豊臣時代から架けられていたらしいですが、近隣の町々で維持管理が行われていた町橋でした。江戸時代の規模は、橋長が二四間三尺一寸三分(49.2m)となっており、幅員は二間(3.9m)でした。このあたりは人家の密集地であり、しばしば大火に見舞われています。その際、橋の被災はまぬがれませんでした。江戸時代から明治の初めにかけては、橋の構造にはほとんど変化はなく、五径間の木橋でしたが、約6mと幅がかなり拡げられました。久宝寺橋が近代化されたのは、昭和14年で、橋長41.5m、幅員12.6mとなり、三径間のゲルバー式の鉄筋コンクリート桁が適用されました。
久宝寺橋の欄干
久宝寺橋の親柱
久宝寺橋の顕彰板

久宝寺橋を渡り、東へ進みます。熊野街道が通る御祓筋で右に曲がり南に向かいます。榎大明神と長堀通との間に約6mの大きな高低差があります。このあたりは、第2回で歩いたところです。
今回は、ここから御祓筋をさらに南に進むことにします。

榎大明神と石段

長堀通を渡り南へ進むと、このあたりは戦災を免れた地域ですので、古くからの町家や長屋が多く残っています。リノベーションでおしゃれなレストランになった町家もあります。後ろを振り返ると、榎大明神の槐(えんじゅ)の大木が遠くに見えています。
昭和23(1948)年8月、米軍撮影による空中写真の空堀付近
御祓筋の町家
角地に建つ町家
角地に建つ町家(改修されてレストランに)
北側を振り返ると榎大明神の槐(えんじゅ)が見える
修景された町家
御祓筋(北側をのぞむ)

前方に空堀商店街のアーケードが見えます。今回は商店街には寄らずに、アーケードを抜けてさらに直進することにします。
空堀商店街のアーケード
天保新改攝州大阪全圖 天保8(1837)年 

アーケードを抜けると道は右手に屈折しています。江戸時代の地図を見ても、同じ場所に曲がりがあったことがわかります(オレンジの丸印の箇所)。
突き当たりには、長屋再生で有名になった「惣」が見えています。
惣について詳しくはこちらをどうぞ。

御祓筋の屈折地点(突き当たりに惣)
再生された長屋・惣

惣の前を通り過ぎ、次の通りを東に向かいます。谷町筋の一つ西の筋に「にぎわい堂」があります。「にぎわい堂」は、築70年以上の木造の町屋(表長屋)を再生して平成15(2003)年11月に生まれた情報発信・交流スペースです。公式ホームページはこちらです。Facebookはこちらです。残念なことに3月に閉鎖になり、近く解体されるそうです。

にぎわい堂
にぎわい堂の入口
にぎわい堂のトンネル路地
にぎわい堂の表札と顕彰板

にぎわい堂の前の筋を北へ進むと、また別のトンネル路地がありました。入ってみると、こじんまりした料理屋さんがありました。さらに進むと一瞬行き止まりかなと思いましたが、狭い階段で通りに出ることができるようになっていました。
トンネル路地
路地奥の料理屋さん
路地の突き当たりには階段
さらに階段
路地奥の階段通路

谷町筋に出て、空堀商店街に向かう途中に、市街地改造ビルがありました。このあたりは大阪万博の直前まで密集した市街地で、谷町筋が6丁目から9丁目の間だけが拡幅できないままでした。そこで、大阪駅前第1ビルから第4ビルの再開発と同様の「市街地改造法」の手法を使って、立ち退きとなる住宅、店舗等の受け皿となる市街地改造ビル4棟が確保されたことによって、地下鉄谷町線と谷町筋の開通が可能となりました。
昭和39(1964)年の空堀付近(谷町筋が未開通、中央大通も都心部分が未完成)
市街地改造ビル
市街地改造ビルの玄関
谷町筋の向かいにも市街地改造ビル

市街地改造ビルは1階から3階が店舗・事務所、4階以上が住宅となっています。3階と4階の間にM4階があって、両者の緩衝地帯になっています。

市街地改造ビルのエレベーター(M4のボタンがある)
市街地改造ビルのM4階フロア
昭和50(1975)年の空堀付近
昭和50(1975)年の空堀付近拡大(市街地改造ビル4棟、空堀商店街のアーケード)

空堀商店街と谷町筋の交差点です。映画プリンセストヨトミでも登場した「はいからほり」のアーケードがあります。商店街の両側に市街地改造ビルが建っています。
空堀商店街の両側に市街地改造ビル
はいからほりのアーケード入口
空堀商店街はいからほりのアーケード

谷町筋の東側は、別の商店街になっています。「空堀ど~り商店街」の名前と「空堀ろまん街道」の二つの名前が挙がっています。アーケードのデザインも、東西で異なっています。
空堀ど~り商店街
空堀ろまん街道アーケード

空堀ろまん街道のアーケードを抜けると、熊野街道の標識が建っています。大阪市教育委員会が推定する熊野街道は、安堂寺通りからここにつながるルートとなっています。街道がここで屈折しているため道に迷いやすい個所ということで、道路に案内板を埋め込むという配慮もされています。熊野街道は、ここから南へ向かい坂を下っていくことになります。
熊野街道の標識
熊野かいどう案内板が道路に埋め込まれている
熊野街道はこの坂を下る

空堀の地名の由来は、大坂城の南惣構え(外堀)がここにあったことと云われていますが、真田丸とも関わるお話ですので、詳しくは改めてご紹介することにします。
熊野街道のルートに合流できたところで、熊野街道ちょっと散歩第4回は、ここまでとします。

続きはこちらからどうぞ。≫ http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/05/blog-post_15.html
第1回からご覧になる方は、こちらからどうぞ。



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