2016年5月12日木曜日

古地図探偵 五代氏藍製造所「朝陽館」のその後(その2) 20160512

五代友厚氏の藍製造所「朝陽館」のあった地が、その後どのように変遷してきたのかを古地図を手掛かりに探偵しています。前回は、江戸時代の古地図から、この地に大村藩、久留米藩をはじめ各藩の蔵屋敷があったことがわかり、明治15年、17年、18年の地図により、この地に藍製造所「朝陽館」があったことを確認しました。

今回の最初の地図は、その10年後で、明治28(1895)年発行の「大阪市明細地図」です。
この地図では朝陽館のあったところは、「商品陳列バ」となっています。今でいうと見本市会場のようなものでしょうか。西隣の鐡道局のあった場所は尋常中学校となっています。北野高校の前身です。


蜆川はまだ残っており、島となっている堂島の東半分には、堂島濱通2丁メマデ、堂島中ノ町2丁目マデ、堂島北ノ町、堂島裏町3丁目マデ、と表示があり、街区割がされています。
梅田停車場は東に移動していますが、渡辺橋から北に延びる道が駅につながっています。大江橋から北側には大きな道路はありません。
京都線の表示があり、神戸線の所には蒸気機関車と車両の絵が描かれているところもユニークです。鉄道の沿線には田畑が広がっていた様子がよくわかります。


赤く塗られた施設を見ると、堂島米會所、控訴院、郵便電信局、府立病院、琴平社があり、医学校、シハン学校、女学校の表示もあります。堂島紡績所、製銅會社、製紙場などの工場も表示されています。現在の中之島の市役所の場所は明治記念碑公園となっており、豊国社の文字も見えます。工場が表示されていて文明開化の様子が伺われる一方で神社も強調されている点が面白いと思います。
⑩明治28(1895)年発行の「大阪市明細地図

次は、さらに5年後の明治33年発行の「改正大阪市明良新地図」です。
この地図では、朝陽館の敷地には、大阪府立商業学校、大阪府立一等測候所、商業會議所、商品陳列所、となっています。いろいろな公的機関が同居しています。

西隣には大阪府立第一尋常中学校があります。さらに西に堂島紡績、堂島小橋を北へ渡ったところに、天神と合わせて福島紡績會社、日本紡績會社があります。


北へ目を転じると、梅田停車場の文字とステーシヨンの文字があり、さらに東には塔の絵の横に凌雲閣の文字があります。
鉄道路線には、京行鉄道、神戸行鉄道と表示があります。西京は使われなくなったのでしょうか?鉄道の沿線は田畑です。

中之島には、豊国神社、中之島公園地、郵便局、朝日新聞社があり、北岸には控訴院、地方裁判所、露天神、夕日神明があります。
大きな文字で曽根崎とあり、蜆川の北岸に曽根崎新地一丁目、二丁目、三丁目があります。
⑪明治33年発行の「改正大阪市明良新地図

もう1枚、明治33年の地図があります。「改正新町名入大阪市新地図」です。
こちらの地図では、朝陽館の敷地には、北半分に商業学校と測候所、南東に商業會議所、南西に商品陳列所、と敷地が分けられて、公的機関が立地しています。

西隣には知事官舎、その西には第一尋常中学校があります。さらに西に合羽島の文字があります。この地名は初めて登場しました。

改正大阪市明良新地図と比べると、「新町名入」という表題通り、街区割りがきめ細かく、町名がぎっしり入っています。
曽根崎新地の北側は曽根崎上、初天神(お初天神)をはさんで曽根崎中、太融寺町、小松原町、北野角田町、東梅田町、梅田町、西梅田町、北梅田町があります。

大阪駅には官設梅田停車場という表示があり、西梅田には西成鉄道會社停車場とあります。
梅田町の南に「静観楼」とありますが、調べてみると、「曽根崎の料亭静観楼(いまの産経会館の地に戦災前まであった)は汽車を見物するのに絶好の場所となり、庭園の一隅に木造二階建の洋館を新設して窓外の菜の畑ごしに汽車を眺めつつ酒宴が催された。」、「桜橋と大阪駅の間に「静観楼」が見えます。料亭なのですが一説には元のサンケイホールの場所にあったとか。明治42(1909)年の大火で半焼したそうで、この地図はその前に作成されたものです。静観楼の写真はみつかりませんでした。」
とのコメントが見つかりました。有名な料亭があったようです。
改正新町名入大阪市新地図(明治33年)

次に、明治39年発行の「大阪市街全図」をみると、朝陽館の敷地には、北半分に商業学校と測候所、南東に商業會議所、南西に商品陳列所、となっており、明治33年と変わっていません。

前の地図にはなかった大きい文字の地名(地域名)を拾ってみると、右上から北野、曽根崎、上福島、堂島、合羽島、中之島となっています。

蜆川は曽根崎川と表記され、上流(地図の右側)から順に、難波小橋、シジミバシ、ソネザキバシ、桜バシ、助成バシ、緑バシ、梅田橋、浄正橋、汐津バシ、堂島小橋が架かっています。今は川は埋め立てられてなくなりましたが、桜橋などいくつかの橋の名は町名として残っています。現在の大阪駅前第一ビルの南西交差点が桜橋です。「川がないのになんでかな?」の答えは、「地名はかつての地形を反映していることがよくある」です。

鉄道をみると、官設鉄道に加えて阪神電気鉄道が開通し、出入橋が起点になっています。調べてみると、1905年(明治38年)4月に神戸(三宮) - 大阪(出入橋)間の営業開始。翌1906年(明治39年)12月21日 それまでのターミナルだった出入橋駅より路線を延ばす形で梅田駅が開業。現在より西(ハービスENTあたり)にあった。(ウィキペディアより)とありました。明治39年発行の地図ですが、前年4月の阪神電気鉄道開業時の様子を早速に反映して描かれています。

⑬明治39年発行の「大阪市街全図

次に、明治44年発行の「実地踏測大阪市街全図」をみると、朝陽館の地には、北側に※、南側に「會議」と※と、赤字で知事官舎とあります。「會議」は商業會議所を略したものです。
※の意味は凡例にもなく不明ですが、商業学校は上福島へ、測候所は西区築港へ、商品陳列所は博物場の地である本町橋詰に移転しました。これらの移転にも明治42年の北の大火による被害が影響しているようです。

この地図には、図の左上に「官衙学校銀行所在地表」がついていて、以上の移転も表中に名称と住所が掲載されていることから確認できました。表に掲載されている施設は、地図にも「會議」と同様の白抜き表示がされていて見つけやすくなっています。

西区築港は現在の港区築港です。面白いのは、「ちくこう」「かわぐち」など港を表す地名は、赤い船の形に白抜きで地名が書かれていて、遊び心が感じられます。

阪神電車は梅田まで開通。阪急電車の前身の箕面有馬電気軌道は1910年(明治43年)に梅田~宝塚間が開通しています。大阪駅の表記は「をほさか(うめだ)」となっています。
この間に市電の整備が進み、梅田、東梅田町、曽根崎新地、堂島中通、渡邊橋と伸びる現在の四つ橋筋と、梅田、車庫前、曽根崎永楽町、船大工町、大江橋、淀屋橋と伸びる現在の御堂筋に市電が開通し、淀屋橋・大江橋と梅田が直結されるようになりました。曽根崎から天満、淀屋橋から天満橋への東西線も開通しています。現在の大阪駅前ダイヤモンド地区の形ができています。

蜆川は明治42年の北の大火の後、瓦礫によって東半分が埋立てられますが、この地図では、北から流れてくる水路を受ける形で、川幅は狭くなっていますが残っています。この水路を見ると、大阪駅前第2ビルの工事中に道路の陥没事故が起きたことにも納得がいきます。
⑭明治44年発行の「実地踏測大阪市街全図

次の地図は、大正3年発行の「大阪市内詳細図」です。‬
朝陽館の地は、北側は市役所に、南側は商業会議所と知事官舎になっています。

大阪市役所の庁舎については、ウィキペディアによると、
《初代庁舎は西区江之子島上之町にあった木造2階建ての仮庁舎で大阪市が設置された1899年(明治32年)から使用された。市会議場がなかったため、市議会には大阪府の議事堂が利用された。
2代目庁舎は、北区堂島浜通2丁目にあった木造2階建ての議事堂を持つ仮庁舎で、1912年(明治45年)5月に竣工し旧庁舎から移転するに至った。
3代目庁舎は、中之島公園の地に1917年(大正6年)6月、片岡安により実施設計が行われた後、1918年(大正7年)6月に着工し、1921年(大正10年)5月に竣工した。》
とありますので、2代目庁舎(木造2階建ての仮庁舎)が約10年間朝陽館跡のこの地にあったことが確認されました。

蜆川は出入り橋から上流部の東半分が北の大火の瓦礫によって埋立てが進み、北側は曽根崎新地に、南側は堂島裏町に編入されています。北から蜆川に流れ込んでいた水路も埋め立てられて、東側は曽根崎中に、西側は東梅田町になっています。現在の四ツ橋筋よりも西側が梅田町、梅田入堀よりも西側が西梅田町となっています。現在の感覚よりも全体的に西側が繁栄していたようです。

鉄道については、明治44年時点と大きな変化はありません。市電は桜橋から西へ延びて福島・野田方面とつながっています。大阪駅は「をゝさか」になっています。明治44年は「をほさか(うめだ)」でした。

この地図は、これまでの地図と比べて書き込みが詳細で、交差点での市電のレールのつながりも分かり、銀行名や企業名などもところどころに書き込まれています。
⑮大正3年発行の「大阪市内詳細図


次は、大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」です。
この地図は大阪湾の上空から見た鳥瞰図となっています。朝陽館の地の南半分には、「商業會議所」と書かれた赤レンガの建物と、その手前には緑の中に白っぽい建物が描かれています。知事官舎でしょうか。北半分(左側)には、赤レンガの大きな建物と、2階建てくらいの複数の小さい建物が描かれています。
さらにその手前には、大学病院の大きな建物も描かれています。
この地域は、周囲の他の地域に比べると緑に恵まれたエリアとして描かれています。大阪市パノラマ地図は、当時のまちの姿をビジュアルに観ることができる貴重な地図と思われます。
⑯大正13年発行の「大阪市パノラマ地図

次は、大正14年発行の「大阪市街大地図」です。‬
朝陽館の地は、南側は会議所と知事官舎になっていて、変化はありません。北側は空白になっていますが、大正10年に中之島の市庁舎が竣工して市役所が移転した後です。中之島の東寄りに市役所、豊国社、図書カン、公会堂が並んでいます。

市電の停留所名が、梅田をはさんで阪神電車前、箕面電車前となっていて、私鉄が社会に認知されてきています。他に、新道、桜橋、船大工町、曽上四が表示されています。曽上四は曽根崎上四丁目の略ですね。大阪駅の表示が、「をほさか(うめだ)」に戻っていますが、出版社の関係でしょうか?

この地図は、大正14年4月の第二次市域拡張後の地図で、太い赤線は区境です。黄緑が北区、右下が東区、隣が西区、左が此花区、左上が西淀川区です。
⑰大正14年発行の「大阪市街大地図

五代氏の藍製造所「朝陽館」のその後を追いかけて、明治28年から大正14年まできました。「その2」はここまでとします。
地図は、主に国際日本文化研究センター(日文研)さんが、Webで公開されている資料を利用させていただきました。各地図の表題をクリックすると、日文研さんの公開地図を見ることができます。
「その3」はこちらからどうぞ。

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