2016年3月25日金曜日

第1回大阪市パノラマ地図検定(その3)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から合計10問の問題を出題します。
後日、解答例と解説を投稿しますので、自己採点をしていただき、

90点以上で1級、80点以上で2級、70点以上で3級が認定されます。

設問(各問共通です)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所は当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の
天保年間には何があったでしょうか?
D この場所(建物・土地)について、自由にコメントしてください。

※Dのコメントが浮かばない方は、問の後にあるヒントにお答えください。

第7問 タンクの左の川は現在どうなっているでしょうか?


第8問 手前の川の名前は?

第9問 高等工業学校は現在どういう学校になっていますか?

第10問 市電廃止の後にできた地下鉄は何線と何線?

配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点、とします。


早くに答えを知りたい方は、下記あてに解答をお送りいただきますと、コメントをつけて返信いたします。
回答は、こちらからどうぞ。
     (「お問い合わせ内容*」の欄にA~Dの解答を記入してください。)

さあ、レッツ、チャレンジ!!
多くの皆さんの回答をお待ちしています。


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2016年3月21日月曜日

熊野街道ちょっと散歩(第2回)


熊野街道ちょっと散歩、前回は八軒家浜をスタートして、西へ東へ寄り道しながら、釣鐘町2丁目の釣鐘屋敷跡までたどり着きました。

地図で見てみましょう。前回は明治期の地図を紹介しましたが、今回は第二次市域拡張後の大正14年に発行された「大阪市街大地図」です。前回は地図の中央上のオレンジ色の八軒家からみどりで示した釣鐘町まで、寄り道ばかりでほとんど進んでいません。今回は青い矢印に沿ってできるだけ前進することにしましょう。

大正14年発行 大阪市街大地図の内本町付近

その前に、まず地図を概観しておきます。この時期になると市電のネットワークがほぼ出来上がっています。地図左上の北濱二から時計回りに、北浜一、天神橋、八軒家、天満橋、偕行社前、大手前、馬場町、谷町三、内本町一、内本町二、本町一、本町二と外周の幹線道路に市電が通っています。堺筋、谷町筋、本町通も市電の敷設に合わせて拡幅されました。
大阪城の周りは陸軍関係の施設が並ぶ中に、大手前高等女学校があります。隣接地には大正15年に大阪府庁が竣工し、江之子島から移転してきます。
東横堀川には、今橋、高麗橋など水色で示す橋が7つ架かり、高麗橋詰町、内本町橋詰町、農人橋詰町、材木町など、水運に絡んだであろう町名があります。商品陳列所や東区役所も東横堀沿いです。
このように周りに気になるものが色々とありますが、今回は道を急ぐことにします。

釣鐘屋敷跡から御祓筋に戻り、青い矢印に沿って南に進みます。本町通までの間はオフィスやマンションが並ぶ中に店舗がパラパラとあるような地域です。
本町通の一本北の徳井町通でちょっと東へそれると、山本能楽堂がありました。国登録有形文化財に指定されています。
山本能楽堂
山本能楽堂の玄関

通りの名前は本町通ですが、東横堀川はもともと大坂城の外堀でしたので、川よりも東側はお城の中ということで、このあたりの町名は、本町に「内」がついて内本町です。
本町通を南へ渡ると、目の前に高架で阪神高速道路が通っている中央大通りがあります。戦後の都市計画で作られた街路ですので、大正時代の地図には当然ありません。地図の両替橋通と農人橋通の間がすべて中央大通りとなっています。当時は、市電が走る本町通が東西のメインストリートでした。
ガード下をくぐりしばらく南へ進むと、南大江小学校があります。ここには、太閤下水の見学施設があります。

南大江小学校前に熊野街道の案内石
太閤下水見学施設の案内
太閤下水見学施設
太閤下水(背割下水)の説明板

南大江小学校から南へ進むと、内久宝寺町交差点に面して、旧日本住宅公団の内久宝寺町アパートがあります。公団創立後初期の昭和34年に建設された市街地住宅、いわゆるゲタバキアパートで、1~2階に店舗や事務所、上階が集合住宅の複合ビルです。どことなく味のある懐かしい建物です。
内久宝寺町アパート(東面)
内久宝寺町アパート(南東より)
内久宝寺町アパート(南西より)
内久宝寺町アパート(看板)
1~2階は店舗・施設(久宝寺ビルディング)
内久宝寺通を西に進むと、東横堀川に久宝寺橋がかかっています。橋を渡ると、久宝寺寺内町(現在の八尾市)から商人が移り住んできた久宝寺町です。歩道にアーケードのある店舗の多い賑やかな通りです。橋から東側は城の内側ということで、このあたりの町名は内久宝寺町となっています。ここからさらに南に進むと南大江公園に出ます。
南大江公園
さらに南へ進むと、角に立派な洋館があります。
角の洋館

洋館
洋館の前に熊野街道の案内
熊野街道の説明板
大阪市教育委員会が推定する熊野街道は、八軒家浜から御祓筋を南下してきて、洋館の一筋南、安堂寺町通の交差点で左折して東に向かいます。この熊野街道の推定について、「ここで直角に折れるのは考えにくく、御祓筋を南へ直進したのではないか。」という説もあります。

安堂寺町交差点から東を見る
安堂寺町交差点から南を見る
ここから南へ直進すると、映画プリンセストヨトミにも登場した榎大明神の祠と、槐(えんじゅ)の大樹があり、その先の長堀通との間には大きな高低差があります。
槐(えんじゅ)の大樹
榎大明神の祠
長堀通側から見上げるとこんな感じです。長堀通との間には30段以上の石段があります。
榎大明神前の石段


直進する場合にはこの急な石段を下ることになります。荷物の多い旅人にとっては多少遠回りになって距離が伸びても、急坂や石段は避けたのではないかという考え方もできます。
上町台地の高低差
(榎大明神あたりは谷になっています)


天保新改攝州大阪全圖 天保8(1837)年

江戸時代天保年間の古地図で見ると、安堂寺町は東横堀に橋も架かっていて、道幅も広く描かれています。現在も立派な町家が残っていて、往時の繁栄が窺われることから考えても、安堂寺町交差点(青丸)で東に折れる説にも合理性があると思いますが、皆さんはいかがお考えでしょうか?
天保新改攝州大阪全圖 (安堂寺町~四天王寺)

同じ古地図の安堂寺町から南方面四天王寺までを示しました。青丸をたどるコースが大阪市教育委員会が推定する熊野街道です。北平野町、南平野町を通過する上町台地の背骨を通るルートになっています。直進した場合にはオレンジのカーブは今も残っている道筋です。緑の丸は高津宮と生玉宮です。どこかで東に折れて坂を上らないと、下寺町に出てしまいます。
次回以降で、この辺りも歩いてみたいと思います。
今回はここまでとします。

地図は国際日本文化研究センターさんからお借りしました。
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第1回大阪市パノラマ地図検定(その2)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から合計10問の問題を出題します。
後日、解答例と解説を投稿しますので、自己採点をしていただき、

90点以上で1級、80点以上で2級、70点以上で3級が認定されます。

設問(各問共通です)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所は当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の
天保年間には何があったでしょうか?
D この場所(建物・土地)について、自由にコメントしてください。

※Dのコメントが浮かばない方は、問の後にあるヒントにお答えください。

配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

第4問 地図の五重塔は木造?鉄筋コンクリート?

第5問 4つの橋にはそれぞれ名前があります。

第6問 本町の南で川が曲がっているのはなぜでしょうか?

早くに答えを知りたい方は、下記あてに解答をお送りいただきますと、コメントをつけて返信いたします。
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2016年3月17日木曜日

第1回大阪市パノラマ地図検定(その1)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から合計10問の問題を出題します。
後日、解答例と解説を投稿しますので、自己採点をしていただき、

90点以上で1級、80点以上で2級、70点以上で3級が認定されます。

設問(各問共通です)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所は当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の
天保年間には何があったでしょうか?
D この地図について、自由にコメントしてください。

※Dの自由なコメントが浮かばない方は、問の後にあるヒントにお答えください。

配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

第1問  昭和30年には何があったでしょうか?手前の川は現在どうなっているでしょうか?



第2問  地図の駅舎は何代目でしょうか?

第3問  地図の塔はその後どうなったでしょうか?

(ヒント)
Aは地図に答えが出ているものもありますので、サービスポイントです。
B、Cについては、「変わっていない」という答えもあり得ます。

江戸時代の手がかりをつかむには、天保年間発行の浪華名所獨案内をご参照ください。
Dは正解はひとつではありません。それぞれの地図について何か気が付いたことをコメントしてください。この土地の想い出でも結構です。答えにくい方は問の後のヒントにお答えください。これもボーナスポイントです。


早くに答えを知りたい方は、下記あてに解答をお送りいただきますと、コメントをつけて返信いたします。
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地図は、こちずぶらりさんからお借りしました。
無料キャンペーンが延長されています。


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2016年3月4日金曜日

熊野街道ちょっと散歩(第1回)

 熊野街道・熊野古道と言うと、中辺路や大辺路など和歌山県内の古道が世界遺産にも指定されていて有名ですが、もともとは、京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称をいいます。

 京から大坂までは淀川を舟で下ることが多く、大坂渡辺津・八軒家に上陸し、そこを起点にして徒歩で四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路を通って熊野三山へと向かう道筋でした。熊野街道は、大阪市内では並行して走る紀州街道よりも東側の上町台地上の稜線部を通っていました。この熊野街道沿いの地域を、寄り道しながらちょっとずつ訪ねてみることにしましょう。

熊野街道(八軒家浜~四天王寺)
 第1回は起点である八軒家浜からスタートすることにします。
京阪電車天満橋駅から北側へ出ると大川に面して八軒家浜船着場があります。平安時代から室町時代にかけて摂津国の旧淀川左岸の河口近く、現在の天満橋から天神橋の間くらいの位置に渡辺津(わたなべのつ)と呼ばれる港がありました。摂津国の政治の中心であった渡辺の地はまた、四天王寺、住吉大社、高野山、そして熊野三山への参詣道である熊野街道の起点として、海陸交通の要地として栄えました。
 江戸時代には、船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるようになり、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」が到着し、淀川舟運の要衝として栄えました。
 NHK朝のドラマ「あさが来た」では、主人公のあさと姉のはつは、京都の今井家(史実は三井家)から、大坂の加野屋(加島屋)と山王寺屋(天王寺屋)に嫁ぎました。当時は鉄道のない時代、ドラマでは京都を舟で発つところしか映されませんでしたが、おそらく、伏見から三十石船で淀川を下り八軒家浜に上陸して船場へ向かったものと思われます。
八軒家浜説明板(浪花百景)
浪華名所獨案内 天保年間1840年頃

大阪市中地區甼名改正繪圖 明治5(1872)年

 平成20(2008)年に往時の八軒家浜の賑わいを水都大阪の再生の拠点とするため、八軒家浜船着場が開港し、大阪水上バス(アクアライナー)、遊覧観光船、屋形船が発着しています。平成21(2009)年には観光船案内所、情報発信スペース、レストランからなる「『川の駅』はちけんや」がオープンし、大川沿いに、天神橋まで続く遊歩道が整備されています。
『川の駅』はちけんや
渡辺津から世界遺産熊野古道への碑
石碑の裏面は英語表記

 八軒家浜に「小楠公義戦の碑」が建てられています。小楠公は楠木正成の長男・正行で1347年に南朝の武将として足利軍と対峙した際に敵の援軍として住吉に出張った山名軍を破って京都まで敗走させました。この合戦の時に渡辺橋でおぼれる多数の敵兵を救い、手当てをして衣服を与えて敵陣に送り返したという話が残っており、これが義戦と称えられています。
小楠公義戦の碑
碑文(藤澤 章 誌す) 

 「『川の駅』はちけんや」の大川側にはレストランや観光船案内所が並んでいて、建物の前には、常夜鐙が復元されています。
『川の駅』はちけんや
常夜鐙
常夜鐙、背景に天神橋と噴水(放水?)

 西へ少し寄り道して天神橋まで足をのばしました。天満橋、難波橋と並んで三大橋と呼ばれる大阪を代表する橋です。江戸時代の大坂には幕府が管理する公儀橋は12しかなく、ほとんどの橋は町人が管理する町橋でした。三大橋はいずれも公儀橋となっていました。
天神橋遠景
天神橋近景~かっこいい~
天神橋南詰の橋歴碑

 熊野街道は八軒家浜から南へ御祓筋を進みます。土佐堀通との交差点には熊野街道の石碑があり、ここから緩やかな坂道で上町台地に上ってゆきます。
土佐堀通と御祓筋の交差点
熊野かいどう石碑
上町台地への坂道

 御祓筋からちょっと東へ寄り道して、永田屋昆布本店へ向かいます。ここには、八軒家船着場の跡石碑や顕彰板があり、運が良ければ「八軒家の今昔~熊野街道のはじまり」というカラー写真入りのおしゃれな小冊子がもらえます。
永田屋昆布本店
八軒家船着場の跡石碑
石碑と顕彰板
顕彰版

 熊野街道へと戻ることにします。御祓筋までの途中、南側に石段があります。御祓筋は緩やかな坂道でしたが、こちらはかなり急な石段になっています。行く先には緑も見えています。これは登ってみないといけません。上にあがってみると北大江公園に出ました。
北大江公園への石段
北大江公園

 公園を抜けて御祓筋に戻り、南へ進みます。地図は明治18年のものですが、北から順に石町、島町、釣鐘町、船越町、内平野町、内淡路町、大手通が、東西の通をはさんで細長い町を形成しています。船場と同様、典型的な両側町で、大坂城に近いほうから、1丁目、2丁目・・・となっています。かつて大坂城の外堀であった東横堀川より内側ですので、「内」の付く名前も見られます。
 通をはさんで同じ町ということは、うなぎの寝床の細長い敷地の裏側にある太閤下水をまたぐと隣町になります。南北の筋を歩いていると、路地をはさんで左右に違う名前の町名表示板を見かけることがあります。両方がそろっているところはなかなか少ないですが、大阪ならではの珍しい風景となっています。
實地踏測大阪市街全圖 明治44(1911)年
島町と釣鐘町の町境となる路地

 御祓筋を南へ進み、釣鐘町で西へちょっと寄り道すると、町の名前の由来となった釣鐘が現存しています。3代将軍徳川家光によって大坂町中の地子銀(現在で言うと固定資産税)が永代赦免された恩恵に感謝し、惣年寄達が協議した結果、釣鐘をつくって町中に時を知らせることとしました。
 鐘楼は江戸時代を通じて、4度の火災(万治、宝永、享保、天保)に見舞われましたが、これを何とかくぐり抜けました。その後釣鐘は1870年(明治3年)に撤去され幾度か場所を移動します。 1926年(大正15年)以降は大阪府庁屋上に「大阪町中時報鐘」として保存されていました。1985年(昭和60年)に地元有志の努力によって、再び元の釣鐘屋敷地へ戻され、現在に至っています。
釣鐘屋敷跡全景
釣鐘
釣鐘屋敷跡の碑

 第1回から西へ東へ寄り道して、なかなか前へ進みませんが、今回はここまでとします。

 本ブログで使用した地図は、ルートラボさん、二つ井戸津の清さん、国際日本文化研究センターさんからお借りしました。


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